自分定規

「答えは己の中にあり」

ハズレ無し!アクション映画3選

お世話になります、ウツシロです。

 

こう見えて映画好きを公表している私がハズレ無しのアクション映画を3本紹介したい。

 

まず1本目は「スパルタンX」だ。1984年に公開された香港映画で、主演は成龍ことジャッキー・チェン、監督はサモ・ハン・キンポーで盟友ユン・ピョウと共に出演している。舞台はスペイン、バルセロナでこの香港カンフー映画界のBIG3が大活躍する。

 

この3人が揃って面白くない訳が無いが、見所はやはりジャッキーと元アメリカンキックボクシング世界王者のベニー・ユキーデのバトルシーンだ。

この対決はジャッキー自身が選ぶ「ファイティング・トップ10」において1位のシーンになっている。数々のバトルシーンの中で1位に選ばれるのだから見応えが凄い。

ユン・ピョウもジャッキーとは違う流れるようなカンフーを披露している。

そしてジャッキー、サモ・ハン、ユンピョウの3人の息の合ったアクションも素晴らしいの1言である。

 

この映画は映画館では無く、近所のレンタルビデオ屋で借りてきて何度も観たのを憶えている。私はジャッキー映画を映画館では無くテレビで観る事が多いが、それでも十分面白い。

 

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2本目は香港映画の大傑作「プロジェクトA」だ。

監督、主演は成龍ことジャッキー・チェン、脚本から武術指導まで務めている。

ジャッキー・チェン」というタイトルでも良いのではないかと思ってしまう程ジャッキーがすべてをこなしている。そしてまたもやサモ・ハン・キンポーとユン・ピョウが出演している。

BIG3が出る映画にハズレは無い。

1900年代のイギリス植民地下の香港を舞台にしたお話で歴史アクションになっている。ジャッキー率いる水上警察とユンピョウ率いる陸上警察がまぁ仲が悪い、しかし海賊という共通の敵を倒すため手を組んで海賊退治に向かうストーリーだ。

そこにコソ泥のサモ・ハン・キンポーも加わりこれまた激しいバトルが繰り広げられる。

この映画の最後のボスである海賊の親分がまた強いのなんの、BIG3対親分のバトルシーンが映画の目玉だが、もう1つはジャッキーの時計台からの落下シーンだ。

このシーンは、喜劇王ハロルド・ロイドの代表作『要心無用』の時計台のシーンから着想したらしい。

高さ20メートル以上の時計台の針にぶら下がりそこから落ちるシーンは3回撮影され1回目でいきなり頸椎損傷の大怪我を負っている。3回もよくやるわ。

ジャッキー映画の中でも伝説のシーンである。

「プロジェクトA2」もその後公開されたがあまり記憶に無いので「プロジェクトA」をおすすめする。

主題歌の「東方的威風」は昔着メロにしていた程大好きだ。

 

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プロジェクトA (字幕版)

プロジェクトA (字幕版)

 

3本目は香港映画の金字塔「酔拳2」だ。

酔拳」は?と思う人もいるだろう、私は断然「酔拳2」が好きなのでここは2をおすすめしたい。1を見ていなくても楽しめるので安心して欲しい。

 

酔拳2」は1994年に制作された香港映画で主演は成龍ことジャッキー・チェン

監督が撮影中に途中降板した為ほぼジャッキーが監督も務めている。

ジャッキー働きすぎ!

舞台は清朝末期の広東、これも歴史アクションだ。

イギリス領事官が中国の国宝を国外に密輸していた事実を知るジャッキー、酔拳を使い英国領事館との対決に挑むストーリーだ。

酔拳と聞けば今や誰でも知っているが、ジャッキーの酔拳は本当にカッコ良い。

ウッチャンこと内村光良氏やナイティナイン岡村隆史氏もテレビ番組でパロディをやっていたが、やはりジャッキーの酔拳は次元が違う。

1番の見所は最終決戦で酒の代わりに工業用アルコールを飲んで覚醒するシーンでいつ見てもテンションが上がる。

流石にRedBullではあそこまで翼は授けてくれない。Monster Energyでも無理だろう。

まるでダンスの様な酔拳も是非堪能してもらいたい。

 

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酔拳2(字幕版)

酔拳2(字幕版)

 

タイトルではアクション映画と書いたがジャッキー映画になってしまった。

気を悪くした方もいるかも知れないが、私の好みが強く出る結果になった。

 

すべてでは無いがほとんどのジャッキー映画を見ている。その中でも絶対に面白いと自信を持って薦められる映画を選んだつもりだ。

ジャッキー映画には敵に負けたり逃げたりするシーンが多い。そこから這い上がり勝つというプロレスにも似たカタルシスがある。

そしてただ逃げるのでは無く様々な小道具を使い逃げ切るあたりがコミカルに描かれるのも特徴だろう。

圧倒的な強さでは無く人間味のある主人公が私は好きだ。

鉄砲でバンバンバンのアクションも良いが身体1つで限界に挑むアクションも良いモノだ。

現在67歳のジャッキーにアクションをして欲しいとは思わない。きっと違うジャンルでも素敵な映画を作ってくれるだろう。

アクションを楽しみたいなら若かりし頃のジャッキーをいつでも観る事ができる。

 

ビデオ屋に行かなくても観れるなんていい時代だ。

 

時間に余裕があれば是非観てもらいたい作品である。

 

 

今日はこの辺で。

 

 

 

 

 

マスクと距離感について考えた

お世話になります、ウツシロです。

 

今回はコロナのおかげで日常になったマスク姿について考えてみた。

 

マスクと言えば冬は暖かいし、ヒゲも剃らなくて良い、ウイルスも防いでくれる素晴らしいアイテムだ。とりあえず私にとっての利点を上げておく。

 

今ではマスクをしないと下着無しで外出しているような感覚に陥り「顔パンツ」なんて言葉が出来るくらいマスクをする事が当たり前になってしまった。

顔パンツ…その発想は無かったわ。

 

マスク姿に慣れてしまうとマスクを外した顔に違和感があるのも分かる。

想像と違い謎のショックを受ける気持ちも分かる。そして外す事がなぜか恥ずかしいという気持ちも分かる。

確かにマスクの下は勝手にイメージしているかも。

 

この感情はコミュニケーションをとる上で非常に厄介だ。

相手と親密になるには出来るだけ心を開く必要があるが、マスクをしている時点で素顔を見る事が出来ない、まるでバリケードを張られているような気がしてしまう。そこに羞恥心が加わるとバリケードは更に頑強になる。

相手の素顔が分からないとそれ以上その人を知りたいという感情が働きにくいだろう。

中身も重要だが第一印象で相手に興味を持つ事が多々あるからだ。

時節柄仕方ないが、気軽に連絡先を聞いたり飲みに誘う事が極端に減ったように思う。

 

初対面の場合、お互いにマスク姿だと相手に興味を持てずに終わる事が増えるのではないか。

表情の分かりにくい相手に踏み込むというのは案外難しいもんだ。

知り合いならそこまで影響が無いかも知れないが、これから出会う人々に関してはこの状態が続くと親密な関係を築く可能性を減らしかねないと危惧している。

 

私もマスク姿になってから他人との距離感が微妙に変わった。

職場においてマスクが原因で相手の話を聞き返すのも鬱陶しくなり少し聞こえないくらいならそのまま進めてしまったり、私の声は割と大きい方だがそれでも伝わない時などはもういいやと思う事もある。コミュニケーションの弊害になっている。

生身の人間に対して新しい人間関係を積極的に築こうと思わなくなり、素顔を見る事にも少しだが罪悪感を感じるようになった。

ソーシャルディスタンスの影響もあると思うが人に近づこうと思わないのだ。

これは社会情勢(特に災害やパンデミックなど)や流行が精神状態にも影響を及ぼす事の現れではないか。

 

コロナ前よりコロナ後は人との距離感が少し遠く感じる。(私だけかも…)

マスクを外せる時が来たとしても人との距離感が元に戻るには更に時間がかかるはずだ。

 

いつになったら元に戻るのか分らないなら今までとは違う人間関係や付き合い方を模索してみようと思っている。

 

 

感染者も少し増えてきているし、笑点のメンバーも変わるし2022年も波乱の幕開けになりそうだ。

 

 

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出会いはリアルにもネットにもある、どう付き合って行くかは自分次第だ。

 

 

今日はこの辺で。

 

酒は飲んでも飲まれるな、若人の為に!

明けましておめでとうございます、ウツシロです。

 

いやぁ~、2022年も始まってしまった、この三ヶ日はしっかり休んで今年もスタートってなもんだ。

 

元旦から新年一発目は何を書こうか考えていたが、これと言って書きたい話も浮かばない…

結局ビールを飲んで年末年始を過ごしたが、よくよく考えてみると幼い頃は酔っ払いが酷く嫌いだった事を思い出す。

 

特に正月など親族が一堂に会し宴会をするのが恒例で、大人達が酒を飲み唾を飛ばして声を張り上げる姿を見るのがとても苦手だった。

普段を知っていれば尚更いつもとの違いに嫌悪感は増したものだ。

酒の力で元気ハツラツ、素面の時とは違うノリで子供達にチャチャを入れてくる感じに胸の奥で中指を立てていた。

私は大人になってもこうはなりたく無いと酔っ払い達を見ていたものだ。

 

成人してからも飲み会やクラブでは酒を飲んだが家で飲む事は無かった。

そもそもアルコールの味が苦手だったし、家で一人テンションを上げる必要性を感じなかったからだ。

 

しかし、ここ数年は毎晩ビールを飲むようになり、いつしか酒を飲まないとやってられない体になった。一人酒でランニングマンを踊る程テンションが上がる事は無いが、見事に嫌悪していた大人の仲間入りを果たしてしまった。

 

30代半ばあたりから日常生活で楽しいと感じる事が一つ減り、二つ減り酒を飲んで気分を上げないと心の大海原に波が押し寄せて来る事は無い。一日凪なんて事もざらで、波を起こすにはアルコールを入れるしか無かった。習慣とは怖いもので、とにかく毎日飲み素面では笑えないテレビ番組を見て笑っていた。

 

日本酒、ワイン、ウイスキーなど何が自分に合っているのか試したが、どれも悪酔いをして翌日まで響いてしまうケースが多く、消去法でビールに落ち着いた。

今は「金麦」を愛飲している。

 

幼少期に苦手だった酔っ払いに無事変貌を遂げ、今思うのは昔の大人達も私と同じ悩みを抱え数少ないストレス発散として皆で楽しく飲んでいたのだろう。

そんな事は露知らず酔っぱらった大人達を冷たい眼差しで見つめていた事を強く反省している。

 

年に一度の正月に友人や親族が集まる場でハメを外す大人を冷やかな目で見ている若者が居たならば優しく見守って欲しい。

私もいつの間にか冷やかな目で見られる立場になっている様にその子もいつかは皆の仲間入りを果たす時が来るだろう。

 

人は太古の昔からそうやってバトンを受け継いでいるんだね。

 

 

 

Drunk On Love

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飲み会に参加したくない若者が増える今、楽しくスマートに飲める大人が必要とされている筈だ。我々も若者に嫌がられる野暮な飲み方はしないと心掛けて飲もうではないか。

 

それでは1本頂きます、プシュ~。

 

 

 

今日はこの辺で。

 

 

 

 

ゆく年とくる年

お世話になります、ウツシロです。

 

いよいよ今年も終わりだ。

晦日も元旦も最近では特別感は無かったがこうして文字にするとまた違った感覚になるから不思議だ。しっかり節目を意識している。

 

2021年も去年と同様外出を控え、これといった出来事は少なかった。

私の中で1番大きかったのが職場環境の変化だ。

日々ストレスを感じる事が多く疲れたの1言に尽きる。

 

近年稀にみるストレスレベルだったと思う。

 

体中がかゆい、かゆい…

 

飲みにも行けず鬱屈とした感情の発散場所も無い、溜めに溜めた挙句辿り着いたのがこのブログだった。

 

文章などろくに書いた事も無く日記すらまともに付けたことも無い私が、書くという行為を始めるとは半年前の自分には想像も出来ない事だった、それ程追い込まれていたとも言える。

 

読む行為は嫌いではない、昔はそれなりに本を読んだ。

しかし、読んでは忘れの繰り返しに虚しさを感じここ数年は読む事もやめていた。

 

ブログは自分の為でもあるが、少なくとも読んでくれる方の為にも適当には出来ない。

何度か読み返し納得いくまで書き直す、1つの記事にここまで時間を費やすとは思わなかった。

 

ブログを書いて感じたのが誰でも気軽に出来る物だが向き合い方によっては自己表現であり、大げさかも知れないが作品でもある事だ。

不特定多数の人に見られる可能性を秘め自分でもそれを意識している。

自分の為に始めたつもりでも結局は他者と繋がりたいのだろう。

 

私は過去にDJとして自主でMIXCDを作りCDショップの店頭に並べてもらうまで一人でやった経験がある。結局生業にはならなかったが作品を作る楽しさは今も忘れていない。ブログをやる事でその楽しさを少しだけ思い出している。

 

このブログはいつまでやるかも何記事書くかも決めてはいない、決める気も無い。

何も絞り出せなくなった時どうするか考えようと思う。(すでに日々絞っている)

 

 

自分自身と向き合い改めて自分を振り返り、見直し、考え、心を落ち着かせる時間を与えてくれる「書く」という行為の良い所を知った2021年だった。

 

2022年はどんな年になるだろう、また想像も出来ない事を始めるかも知れないなぁ。

 

 

色々ひっくるめてこのブログを見つけてくれた皆様、ご覧頂きありがとうございました。

2022年もどうぞよろしくお願い致します、良いお年を!

 

 

マイペース

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今年はこの辺で。

 

 

 

 

 

天才と凡人の狭間で

お世話になります、ウツシロです。

 

世の中には天才と呼ばれる類いの人種がいる。

 

名前を上げればキリが無いが、今で言うと二刀流のエンジェルス大谷翔平選手や将棋の藤井聡太棋士などか。

同業ではないので凄さを言葉にする事はできないが天才の部類に入るのだろう。

 

天才とは憧れの対象として誰もが通る道だ。

私も10年程前まで自分が天才である事を諦めていなかった。何の天才かは判らないが何かの才能がきっと眠っているはずと。

 

 

私はDJを始めて数年で身近にいる仲間より少し上手くなり軽い天狗状態だった。偉そうに他人を批評し、まるで自分は天上人の如く上から目線で物を言っていた。母数の少ないDJという世界なら自分は天才になれるかも知れないと淡い期待があったのだ。

 

しかし、少し年上の先輩で凄い人が居ると噂を聞き会いに行くと青天の霹靂、とんでも無い才能の持ち主だった。その人は後年日本一の称号を手に入れた。

「す、すげぇ、こんな上手い人初めて見た…天才だ…」愕然としたのを憶えている。

私とは質の違う練習に多くの時間を割き、とにかく練習に励んだのだろう。

具体的な練習法など学ぼうとせず圧倒的な実力差を天才という言葉で片づけた。

 

その先輩を見て逆立ちしても敵わないと10代の私は解っていた。そして自分が天才でない事にも薄々気付いていたがまだ諦めてはいなかった。

プライドだけは人並以上に高かったのが今思うと切ない。

その後も凄い才能を持つDJに数人出会ったがそれでも数%の天才の可能性を心に秘めていた。

 

同じ業界にいると相手の凄さが肌感覚で分かる。

 

話は飛ぶが私は数年ボクシングジムに通っていた。

本格的にやった訳ではないが観るのが好きだったのでスポーツジム代わりに通ったのだ。

上手い人というのはなんとなく分かり実際に上手いと感じた人は結果も残していた。

本当に肌感覚なので説明はできない、直感みたいなもんだ。

 

同様にDJとして相手を超える可能性があるのかないのかも分かってしまう。

上だの下だの考えている時点で半分負けている様なものだが、私はそこばかり気にしてDJをしていた。

天才に憧れた青年は天才で無い事に気付いた時点で自分の立ち位置がどの辺に居るのかばかり気にし始めた。

 

楽しむ事も忘れて…

 

私が見て来た天才だと感じた人達はまずDJを楽しんでいたし、とにかく好きだった。

他人と比較しない人は居ないと思うがそれは二の次の様に見えた。今思えば私は人との比較に一喜一憂し、やるべき事や楽しむ事を置き去りにしていたのだ。

天才とは努力で成り立っている。当の本人は努力と思わないくらい好きな事を練習し続ける事が出来る人だ。産まれた時に決まるものでは無く好きな事を続けられる人の中から現れると思っている。

 

そして他人との比較をあまり気にせず、とことん自分と向き合い納得が行くまでやり続けられる人なのだ。才能や良し悪しの判断は他人が下す。

 

私にはその気質は足りなかったかも知れない。

今となってはどうでもよい事だが。

なぜなら天才とは外部から付与される記号でありレッテルだからだ。

 

本人が吹聴しているのであれば、なかなかの”ヤバい奴”である。(桜木花道は例外)

 

天才になりたいとは芸能人になりたいと大差ない、他人から凄いと思われたい願望なのだ。

私が憧れた「天才」とは何かが跳び抜けて上手い人の事で決して人智を超えるレベルの特殊能力ではない、多分ある程度の人が成りうる可能性を持っている。

 

しかし私はどのようなやり方でそのレベルに達したのか考えようともせず、必要な努力も怠り天才という二文字を都合良く使っていた様に思う。

 

DJ活動から離れて数年後には天才というワードも可能性も私の中から消えていた。

 

あんなに憧れた天才に諦めがついた今、他人からの評価を気にしなくなり、逆に天才になれる可能性が上がっている事に気付く。

 

今なら好きな事を人と比較せずにとことん追求できる気がする。

 

 

天狗 (feat. 荘子it)

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今日はこの辺で。

 

 

 

 

 

 

 

原始人に思いを馳せる

お世話になります、ウツシロです。

 

最近ふと思うのが原始人についてだ。

腰巻を巻いて棒を持った教科書に出てくるあいつだ

 

どの時代の原始人かは気にしていないが、判断に悩んだ時など「自分が原始人ならどうするだろう」と考える。余計な打算は置いといて原始人ならどのように行動するのか想像してしまう。

私の判断基準の項目に原始人がスタンバっている。

 

現代の我々は秩序やルールでがんじがらめになり本質とは違う所で悩んでいる事がある。

 

ほとんどの事は嫌か嫌じゃないかで答えは出ているがそう単純には考えられない。

 

原始の時代にも最低限のルールはあっただろうが今ほど複雑では無いし本能に根付いた行動を取っていただろう。建前や世間体、ファッションも気にせず縦横無尽に腰巻き一つで野山を駆け回っていたのだ。

 

本来人間は必要なだけの狩りをして家族を養い、目の届く範囲の近所付き合いをしながら生活を営んでいたはずだ。

腹が減れば獲物を追うし、身の危険を感じれば逃げる、本能に忠実な生き方だと思う。

 

それが今では電車や車に乗り歩いて行けない距離を移動し、街や駅では数え切れない人を目にする、睡眠時間を削りながら働き、職場や学校では競争や価値観の違いにさいなまれている。これは現代人特有の生活であり動物の一種である人間としての生き方なのか疑問だ。

 

夢だ希望だなんてここ百年くらいの話で、生き甲斐や自分探しも近代になってからの考え方だろう。

この手の悩みを感じ出したのはごく最近の事では無いか?

 

何万年も野生の動物とさほど変わらない暮らしをしていた人間がこの百数十年でだいぶ様変わりしたもんだ。

 

私も今までは他人に認めて欲しい、好かれたいという欲求を強く持っていた。

その為に恥ずかしくない生活や見栄えを気にして生きて来た、それが若さなのかも知れないが。

インスタ映えに必死になっている若者に偉そうな事は何も言えない。

見栄や体裁を気して生きられる平和な世の中に生まれて幸せな事だと過去の日本人に感謝しているが、その分人間関係での悩みは尽きない。人の悩みの9割は人間関係だと聞いた事がある。

 

私はシンプルに考えたいし、無理をしたくない。

3大欲求にも逆らいたくないし他人を気にして我慢する事も避けたい。

 

理想は”原始人感覚”なのだ。

 

一つの考え方に縛られず、人間本来の感性(直感)に従い判断したいと強く思う。

この先の生き方も職種や収入では無くどんな生活を営みたいかに重点を置こうと思っている。何かを自慢したり競い合う相手はもう居ないのだ。

 

コロナ以降の私の考えはだいぶ変わって来た、組織やコミュニティに対する重要度が下がり私という個が最も重要になった。するとコミュニティのルールや関係性を煩わしく感じ始め原始人に思いを馳せてしまったのだ。(なんのこっちゃ)

 

これからは本当の意味で自分との勝負になる、自分の在りたい形を実現できるかどうかだ。

 

山奥で仙人の様な生活をしようとは思わない、今の生活を持続しながら自分が思う人間らしい暮らしを目指すのだ。

 

過去の偉人の言葉も良いが原始人までさかのぼればもっとシンプルに考えられるはず。

 

 

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今日はこの辺で。

 

 

 

 

 

大人の対応なんて…

 

 

お世話になります、ウツシロです。

 

大人の対応という言葉がある。

ややこしい相手に対し節度のある応答だったり、感情的にならず理性的にいなす事だろう。

 

社会人になって1番意識していたのが「大人の対応」かも知れない。

腹が立っても出来るだけ怒らない、相手に不快な想いをさせない、そんな事を意識しながら働いてきた。ある時期から怒り方も忘れていた程だ。

 

私の場合、大人の対応を意識すると結果相手に合わせるだけの人間になってしまう。特にすぐ感情的になる相手に対してこちらが大人の対応をする時は相手に同意するかやんわり違う意見を言う事くらいしかできない。

 

私はその対応を何年もやってきたが、大人の対応なんて考えてもいない相手に対しこちらだけ大人である必要があるのかと思う様になった。

そもそも遠回しの反論で冷静さを取り戻してくれるならややこしい相手ではない。

常に我を通そうとする人間を相手にすると理性的で居る事がバカバカしくなってくるのだ。ギブアンドテイクの概念が無いのかなぁ。

 

優しく諭しても感情で向かってくる人間は必ずいる。

そういう相手の要求を常に呑んでいると何でも言う事を聞く人間として位置づけられる。

無理をすると限界がやってくる、私にとって大人の対応など我慢以外の何物でもないようだ。

自分を仏の様な性格だと思い込んでいたが、どうやら一介のヒューマンだったらしい。

 

一般の人は感情をあらわにする相手に対し引いてしまう事が多い、面倒くさいのが嫌だったり、単純に怖いと感じ相手の言う事を聞いてしまう。

 

私も同レベルで相手をする事が面倒くさかったり格好悪いと思っていた。

周りに言い合っている姿を見せる事にも抵抗がある。

 

しかし、気が付いたのだ。

 

その場を収める為にこちらが相手の意見を呑むと相手は更に要求してくる。

例えやんわりいなしたとしても相手が引き下がらなければその場に終わりは来ない。

 

要するに大人な対応だけでは余程の闘牛士じゃない限り収まらない時があるのだ。

 

そんな時は戦うか逃げるしかない。

 

大人をかなぐり捨てて格好悪くても臨戦態勢か、一目散に逃げるかだ。

 

大人の対応とは大した相手じゃない時は有効かも知れないが限度を超える相手には通用しない。

常識が同レベルの相手ならば互いに大人の対応が成り立つが、そうでない場合は同レベルで感情を出すと良い。

感情むき出し人間は意外と思いがけない反応に弱かったりする。

そして相手を怒らせる事がどういう事態を招くのか教えてあげるべきだ。

これも大人の役目である。

 

大人な対応で波風立てないのが理想だが人生そんな簡単には行かない。自分に危険が迫っているのであれば同等、いやそれ以上の姿勢を見せなければならない。

 

時には周りを気にせず感情むき出しで対応する事があっても良いではないか。

 

 

にんげんだもん     ウツシロ

 

 

 

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「優しさだけじゃ生きられない」事を痛感したのであった。

 

 

 

今日はこの辺で。