天才と凡人の狭間で
お世話になります、ウツシロです。
世の中には天才と呼ばれる類いの人種がいる。
名前を上げればキリが無いが、今で言うと二刀流のエンジェルス大谷翔平選手や将棋の藤井聡太棋士などか。
同業ではないので凄さを言葉にする事はできないが天才の部類に入るのだろう。
天才とは憧れの対象として誰もが通る道だ。
私も10年程前まで自分が天才である事を諦めていなかった。何の天才かは判らないが何かの才能がきっと眠っているはずと。
私はDJを始めて数年で身近にいる仲間より少し上手くなり軽い天狗状態だった。偉そうに他人を批評し、まるで自分は天上人の如く上から目線で物を言っていた。母数の少ないDJという世界なら自分は天才になれるかも知れないと淡い期待があったのだ。
しかし、少し年上の先輩で凄い人が居ると噂を聞き会いに行くと青天の霹靂、とんでも無い才能の持ち主だった。その人は後年日本一の称号を手に入れた。
「す、すげぇ、こんな上手い人初めて見た…天才だ…」愕然としたのを憶えている。
私とは質の違う練習に多くの時間を割き、とにかく練習に励んだのだろう。
具体的な練習法など学ぼうとせず圧倒的な実力差を天才という言葉で片づけた。
その先輩を見て逆立ちしても敵わないと10代の私は解っていた。そして自分が天才でない事にも薄々気付いていたがまだ諦めてはいなかった。
プライドだけは人並以上に高かったのが今思うと切ない。
その後も凄い才能を持つDJに数人出会ったがそれでも数%の天才の可能性を心に秘めていた。
同じ業界にいると相手の凄さが肌感覚で分かる。
話は飛ぶが私は数年ボクシングジムに通っていた。
本格的にやった訳ではないが観るのが好きだったのでスポーツジム代わりに通ったのだ。
上手い人というのはなんとなく分かり実際に上手いと感じた人は結果も残していた。
本当に肌感覚なので説明はできない、直感みたいなもんだ。
同様にDJとして相手を超える可能性があるのかないのかも分かってしまう。
上だの下だの考えている時点で半分負けている様なものだが、私はそこばかり気にしてDJをしていた。
天才に憧れた青年は天才で無い事に気付いた時点で自分の立ち位置がどの辺に居るのかばかり気にし始めた。
楽しむ事も忘れて…
私が見て来た天才だと感じた人達はまずDJを楽しんでいたし、とにかく好きだった。
他人と比較しない人は居ないと思うがそれは二の次の様に見えた。今思えば私は人との比較に一喜一憂し、やるべき事や楽しむ事を置き去りにしていたのだ。
天才とは努力で成り立っている。当の本人は努力と思わないくらい好きな事を練習し続ける事が出来る人だ。産まれた時に決まるものでは無く好きな事を続けられる人の中から現れると思っている。
そして他人との比較をあまり気にせず、とことん自分と向き合い納得が行くまでやり続けられる人なのだ。才能や良し悪しの判断は他人が下す。
私にはその気質は足りなかったかも知れない。
今となってはどうでもよい事だが。
なぜなら天才とは外部から付与される記号でありレッテルだからだ。
本人が吹聴しているのであれば、なかなかの”ヤバい奴”である。(桜木花道は例外)
天才になりたいとは芸能人になりたいと大差ない、他人から凄いと思われたい願望なのだ。
私が憧れた「天才」とは何かが跳び抜けて上手い人の事で決して人智を超えるレベルの特殊能力ではない、多分ある程度の人が成りうる可能性を持っている。
しかし私はどのようなやり方でそのレベルに達したのか考えようともせず、必要な努力も怠り天才という二文字を都合良く使っていた様に思う。
DJ活動から離れて数年後には天才というワードも可能性も私の中から消えていた。
あんなに憧れた天才に諦めがついた今、他人からの評価を気にしなくなり、逆に天才になれる可能性が上がっている事に気付く。
今なら好きな事を人と比較せずにとことん追求できる気がする。
今日はこの辺で。