自分定規

「答えは己の中にあり」

信じると疑うはワンセットで

お世話になります、ウツシロです。

 

今回はとりとめもない話になる。

世の中には色々な人がいる。その色々な人の中から何の因果か出会いと別れがある。

私の少ない人間関係の中でも相容れない人というのがいる。

割合としては少ないが会話をしていて何故か合わないなと思う人は、大概自分の考えを信じて疑わない人だ。

信じる対象は人それぞれだが自分の考えを疑わない、社会のルールを疑わない、会社の規則を疑わないなど、とにかく正しいと思う事を信じ切っている人がかみ合わない。

おまけに正義を振りかざしてくる輩はもう辛抱たまらん…

 

疑い深い人と相性が良い訳では無く、考え方に柔軟性が無い人と相性が悪いという事だ。

 

少年ジャンプの主人公のように自分の信じた道を突っ走る姿は見ている分には気持ちが良いし憧れるかも知れないが現実に身近にいると多分面倒くさい奴だ。(これは勝手な想像)

 

疑いの気持ちというのはネガティブなイメージだが、人を疑うのでは無く自分の考えにも間違いはあるかもという意識が少しでもあれば他人の意見を聞いた上で判断する事が出来たり、違う意見を受け入れる余白を持つ事ができる。

逆に何かを信じ切っている人は余白が少なく、違う意見に対して自分の考えへの否定と捉える節がある。例え意見を聞いてくれたとしても何か腑に落ちない雰囲気が出てしまうのだ。

 

世の中的には「信じる者は救われる」だの「信じる力」だのやたら信じる事は素晴らしいと持てはやされているが信じさせたい側からすると都合の良い謳い文句に聞こえる。

両手を広げて「さぁ信じなさい」的な。

 

すべての物事には陰と陽、善と悪などニ面性がありたまにグレーゾーンもある。

なんだかややこしい話になってきたので要約すると「信じる」という思考にもニ面性があると思っている。

信じる事で熱量は増し大きな結果を出す可能性を秘めているが、信じ過ぎると視野やキャパが狭くなり柔軟性を失いかねないという事だ。

 

結局何が言いたいのかというと何かを信じても盲信せずに少しは疑ってみるくらいがちょうどいいんじゃないって事だ。

 

信じる力も行き過ぎると危うさを感じる、何事もほどほどに。

 

 

I Believe

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何かを信じなければ生きて行くのは結構しんどいが

疑う心も必要だと私は信じている…

 

 

今日はこの辺で。