自分定規

「答えは己の中にあり」

僕らの90年代日本語ラップ4選

お世話になります、ウツシロです。

 

若かりし日に衝撃を受けた曲というのはいつまでも心に残るものだ。

こんな私にも忘れがたし日本語ラップが存在する。

今回は10代の私を鷲掴みにした曲たちを紹介したい。

 

まず一曲目は定番中の定番。

日本中に日本語ラップを知らしめた曲でありこの2組の名前を轟かせたことは間違いない。

スチャダラパーfeat.小沢健二で「今夜はブギー・バック」だ。

今夜はブギー・バック smooth rap (feat. Ozawa Kenji)

今夜はブギー・バック smooth rap (feat. Ozawa Kenji)

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言わずと知れた日本語ラップの金字塔、1994年リリースの曲で小沢健二がメインのバージョンとスチャダラパーがメインのバージョンがある。

↑のスチャダラパーメインのバージョンはラップ多め。

当時スチャダラパーの存在は知っていたがCDやレコードを買う程興味はなかった。しかし、この曲を聴いた瞬間、音源が欲しいと思い走って買いにいった。(チャリだったかも)

スチャダラパーのゆるーいラップとオザケンの甘ったるいボーカルが見事にマッチし、お茶の間どころか様々なアーティストがカバーするほどのクラシックになった。

 

二曲目は黒船の如くアメリカから逆輸入された4人組「Buddha Brand

(ブッダブランド)の「人間発電所」だ。

こちらも日本語ラップの定番ではあるが知る人ぞ知る楽曲だ。

iTunesに曲が見当たらなかったためyoutubeになります。

www.youtube.com

※リリックに過激な表現が含まれています

 

アメリカで出会った日本人4人組、Dev Large(デブラージ)、CQ(シーキュー)、Nipps(ニップス)、DJ Master key(マスターキー)によるグループ。

グループ結成は89年だがアメリカでの武者修行の末95年に帰国、96年にこの「人間発電所」をリリースすることになる。

この曲を聴いた最初の印象はトラックの格好良さ、日本語と英語がミックスされたハードコアなリリック、この時代の日本語ラップでは類を見ない表現で内容が一発で入ってこない所も「ILL」イルである。

私的には未だに何の歌なのか分かっていないが中2心をくすぐることは間違いない。

2000年頃からグループの活動は休止状態になった。

グループの中心人物である Dev Large(デブラージ)氏が2015年に他界してBuddha Brandの再始動は諦めかけていたが2019年にアルバムをリリースしている。

 

 

三曲目は90年代日本語ラップオールスターズ共演の1曲。

95年リリースのLamp Eye(ランプアイ)「証言」である。

証言 (original Analog Version)

証言 (original Analog Version)

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7人のMCによるマイクリレーが圧巻の1曲。

暗くシンプルなトラックに当時の日本語ラップアベンジャーズがこれでもかとたたみかける。各MCを紹介しているとかなりの文字数になるので割愛するが、当時第一線のMC達が集ったため話題性は抜群だった。

私が特に好きだったのが証言4と証言7である。

今更ながら曲を聴いて好きなMCを見つけてほしい。

 

 

四曲目はまさに流れる光のように登場したm-flo(エムフロー)の「Been So Long」だ。

Buddha Brand以来のバイリンガルMC VERBAL、同じくバイリンガルのシンガーLISA、トラックメイカーの☆Taku Takahashiの3人組。

Been So Long

Been So Long

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今でこそド・メジャーアーティストのm-floだがこの頃はまだ駆け出しのグループだった。この曲は99年リリースでアナログ盤を購入したのだが当時衝撃を受けたことを今でも憶えている。曲の雰囲気がアメリカのHipHopと遜色なく、かつ日本語という当時待ち望んでいたタイプのグループだったのだ。

VERBALの声がなんとなくアメリカのラッパー「Nas」に似ているなぁと思い更に興味を惹かれたものだ。その後もm-floの曲を追うことになるが、強烈なインパクトをくらったのはこの曲だった。

まさにファーストインパクト!

 

 

私が10代の頃に衝撃を受けHipHopにのめり込む要因となった曲を紹介してみた。

当時は日本語ラップ黎明期だが、曲のクオリティー、キャラクターの濃さなど現在の日本語ラップの先駆けである。

この4曲以外にも好きな曲はあるのでまたの機会に紹介したい。

 

 

今日はこの辺で。

 

「ザ・ノンフィクション」が地味に好きです

お世話になります、ウツシロです。

 

「ザ・ノンフィクション」という番組があることをご存じだろうか?

日曜日の午後2時から2時55分に放送しているフジテレビの番組で清々しいくらいに気持ちを重くしてくれる素敵な番組だ。

私はこの番組がわりと好きでタイミングが合えば観るようにしている。

3月6日放送の『ボクらの丁稚物語2022~涙の迷い道と別れ道~』後編を観た。

残念ながら前編は観れなかったが、後編だけでも思う所があったので感想を書こうと思う。先に言っておくがあくまでも番組からの情報しかない上での感想である。

 

内容に関しては詳しく書くつもりはないので気になる方はこちらをどうぞ。

ザ・ノンフィクション 2022年3月6日(日)放送 ボクらの丁稚物語2022 ~涙の迷い道と別れ道~ 後編 - フジテレビ (fujitv.co.jp)

 

簡単に説明すると家具職人を目指す若者がある木工会社に丁稚奉公して数年の修行の末一端の職人になり巣立つまでのドキュメントだ。

この番組で感じたことは二つある。

 

一つは職人を辞めることをもったいないという大人達に対する違和感だ。

5年近く見習いをしている22歳の青年がいたのだが、もう少しという所で職人という肩書を手に入れる前にリタイアしてしまった。番組的にはもったいない、辞める青年が理解できないという雰囲気になっていた。それに対し私は何がもったいないのだろうと思った。

まずこの会社の丁稚に対する抑圧はきつい。酒、タバコ、恋愛、携帯は禁止、髪型は坊主が基本だ。好きで入社しているのだからこのルールに従える人も当然いるだろう。しかしこの生活を5年間続けるにはかなりの抑圧耐性が必要だと思う。

これに耐えうる人間の方が特殊な能力の持ち主であると感じてしまった。

この辞める青年には幼少期に発覚した糖尿病という持病がありインスリンを打ちながら仕事をしていた。健康体の人より自分の人生を考える時間は多いように思う。

 

そして極めつけは目標にしていた「技能五輪」と言われる技術を競い合う大会にこの22歳の青年は選考会で選ばれ出場資格を手にしていたにも関わらず、人間性を理由に会社に出場を辞退させられたのだ。

確かに会社のルールを破る一面もあったようだがそれにしても日々の修行の集大成でもある大会を辞退させられるとはやり過ぎだと思った。例年の出場者よりも実力の劣るその青年を大会に出しては会社の名前に傷がつくという理由もあったようだ。彼がもしこの大会に出ていたら自分の実力に気付き更に成長していたかも知れないのに会社のメンツの為に出さなかったのだ。

このような仕打ちをされても会社に残り修行を続けることは頑張り屋さんの美談なのかも知れないが、私からしたらドМ以外の何物でもない。人それぞれ我慢には限度がある。それでも頑張るには具体的な目標が必要だ。彼の直近の目標は技能五輪でありその為に頑張っていたように見えた。その目標を潰しておきながら辞める決断をした時のもったいない、ここまで来て理解できないといった雰囲気に私は呆れてしまったのだ。

 

はっきり言ってこの令和の時代に携帯を持たない、恋愛禁止、丸坊主という条件を飲んで入社する若者自体が珍しいのに当たり前のように扱っていることに違和感を覚えたのだ。

例え5年近くの修行が無になったとしてもそこまでの技術は身についている。その会社で職人になれなかったとしても他の会社や独学でも職人になる術はあるだろう。

 

 

もう一つは価値観の押し付けだ。

この技能五輪への出場辞退には先輩達の意見も反映されていた。先輩の言うことが聞けない、技能五輪への意識が足りない、親への感謝が足りないなどの意見が会議の場で言われそれが辞退への流れを作ったように感じた。

会議に出席していた先輩達はこの丁稚を見事に耐え抜いた生え抜きの猛者達だ。

当然この会社のモットーが頭から足の先まで巡っている。

もちろん言ってることは真っ当なことだと思うが、解釈には個人差が出るものだ。

そんな猛者達からすれば今の若者達がぬるく感じることもあるだろう。

しかし第三者の私からしたらこの環境を耐え抜ける猛者達の価値観もなかなかぶっ飛んでるぜってなもんだ。

この社内の空気感に染まれない者は去るしかなく、強烈な価値観の押し付けを感じてしまった。

 

結論

あるコミュニティでどんなに頑張ったとしても抑圧や価値観の押し付けによってどうしても馴染めずその場に居続けることが困難な場合もある。

物事をやり遂げるつもりで始める人もいれば、やってみたいから始まる人もいる。

自分には合わないことに気付きやり遂げることができない人間の方が多く、途中で脱落することは珍しいことではない。

無理や我慢を乗り越え涙を流してハッピーエンドを迎えられる人も一握りである。

そしてそれができない人間をダメ人間扱いするのもやめるべきだ。そんな抑圧を受けなくても人は成長できるというモデルケースがそろそろ必要だろう。

誰かが仕事を辞める際にもったいないと思うことがあるがそう思っているのは他人だけだ。本人が思っていればまだ続けている。見切りがついたから辞めるだけなのだ。

いつ何時辞めようがそこまでの経験を糧にもっと居心地の良い場所を見つけることが大事だと思う日曜日の午後であった。

 

 

 

サンサーラ

サンサーラ

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この番組は出演者のチョイスと言い、色んな意味でツッコミ所満載な感じがたまらないよね。

 

 

 

いゃ〜今回はよく書いたわ、今日はこの辺で。

 

 

ヒーローにも私生活はあるはずだ

お世話になります、ウツシロです。

 

TVをつけると「それいけ!アンパンマン」がやっていた。

 

アンパンマンバイキンマンと一進一退の戦いを繰り広げていて悪者を懲らしめ弱きを助ける姿はいつの時代も人々に愛される理由が分かる気がする。

私の頭をふとよぎったのがアンパンマンはとても優しく素晴らしい人格者だが普段は何をしているのかということだ。

厳密に言えば何で収入を得て何を食べて生活をしているのだろうと疑問に思ってしまった。

ジャムおじさんの用心棒的な存在になり悪と戦うことだけが仕事になっているのか、ジャムおじさんの工場でパンを作っているのか、バタコさんと一緒に街でパンを売り歩いてジャムおじさんからバイト代を得ているのか。

防犯、製造、販売のいずれかを担って生業にしていると考えたのだ。

自分の頭をちぎってあげる時はあくまでも緊急事態であり平時の時はさすがに工場で作られたパンをあげるか売るかしている筈だ。ジャムおじさんのデカい工場を経営するには商売せざるを得ない。

 

アンパンマンに詳しくないため普段の生活をあまり見たことがない。

子供にそんなシーンは必要ないかも知れないが、やはり生きているとバイキンマンと戦う時もあれば、海鮮丼を食べる時もあり、汗をかきながらパンを売り歩く日も、食パンマンやカレーパンマンとのリーダー争いもあるだろう。そこを匂わせるだけでも子供達の将来の社会勉強になるのではと思ったのだ。

 

ここまでアンパンマンについて書いてしまったのでせっかくだから調べてみた。

 

アンパンマンポータルサイト (anpanman.jp)

 

このサイトで気になった質問を上げてみよう。

Q.アンパンマンは何を食べているのか?

A.頭の中のアンコがエネルギーになっているため食事をする必要がない。

(なるほど、食事が必要無ければ働く必要もないな。)

Q.アンパンマンに休みはあるのか?

A.毎日パトロールをしているため休みはない。

(無休の自警団みたいなことをしているようだ。)

Q.アンパンマンの身体は何でできているのか?

A.生まれた時から服を着ていたため身体を見た人がいない。

(身体もパンとは限らないしそもそも何なのか分からない。)

Q.アンパンマンつぶあんこしあんか?

A.つぶあん

つぶあんだけに豆知識としても使えるな。)

 

収入の質問はなかったが知らなかったことが知れて有意義な時間を過ごすことができた。ここまで書いてみて思ったのはやはり「アンパンマン」は子供達のヒーローであり弱きを助け悪をくじく思想を学べば良くてそれ以外の泥臭い話は他の作品で学べってことだ。

 

 

Hero

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とうとうアンパンマンの私生活が気になる年頃になってしまったか……

 

 

 

今日はこの辺で。

 

友達100人もできるかーい!

お世話になります、ウツシロです。

 

ここ数年友達とプライベートで会う機会が激減しているがどうにかこうにか生きている。

刺激がないことは自覚しているがなんとかなるもんだなぁ。

友達100人できるかな」なんて歌詞があるがあの歌は今もうたわれているのだろうか…

 

あの歌で友達が多い方が良いと思い込み悩んでいる人間が一定数いるのではないか。

 

私もこの歌詞の刷り込みによって友達が多いことが素晴らしいことであり少ないことは何だか恥ずかしいことだとある時期まで思っていた。

 

幼少期の刷り込みとは恐ろしい。

はっきり言って友達100人、いや10人居なくても何ら支障はないし全然生きていける。

40代にもなるとプライベートで待ち合わせをして人と会う事が億劫になってくる。日々体を酷使して働いているとできる限り体を休ませたい欲求が強くなるのは仕方がない。

そんな時でも会いに行きたいと思わせる相手こそが友達ではなかろうか。

そして現在の私はそんな気持ちになる友達が片手で数えられる程だがいる。

それで充分、100人いたら身が持たない。

以前、自他共に認めるコミュニケーションの鬼みたいな奴がいたがメールやら電話やら傍から見ていて大変そうだった。彼は今もあの状態なのだろうか。

 

友達と知り合いを混同してはいけない。

顔を知っている、名前を知っている、挨拶をする、天気の話をする、このくらいの距離感の人は皆結構いる筈だ。

しかし、知り合いに友達のノリは通用しない。

友達を作ることは案外難しい、お互いのフィーリングが合わなければ成立せず利害関係が全面に出るようでは友達とは言えない。

親友に出会うなんて奇跡みたいなもんだ。

だからこそ大切にしなければならない。

 

今の子供達はあの歌を聴いてもそんな価値観に染まらないかも知れないが、友達が多い方が良いという価値観は如何なものかと思う。

極端な話例え1人もいなくても生きていくことは可能だ。

友達とは人生において様々なスパイスを与えてくれるが量を間違えると悩みの種にもなる。

多ければ無条件で良いものではなく本当に気の合う人が少しでもいてくれるだけで充分だ。友達や知人の数がステータスになる時期もあるがそれは一時のことで数などどうでも良くなるのだ。

 

 

フレンヅ

フレンヅ

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量より質、少なくても良い友達と長く付き合うべきなのだ。

 

 

 

と、出来れば読者を増やしたい男が何か語っております……

 

 

今日はこの辺で。

 

 

他に手はなかったのか

お世話になります、ウツシロです。

 

私は音楽やお笑い、映画などエンタメ全般が好きな方だと思っている。

しかし、この好きなはずのエンタメも状況によって体が拒絶することがある。

 

それは自分のキャパを超える問題が発生した時だ。

 

コロナ禍で気分が沈みがちだった所に連日戦争のニュースは正直キツい。どちらの国にもそれなりの理由があり起こったことだとしても詳しいことは解らないし正義だ悪だで語る気はない。

これからどうなっていくのか見守るしかないが罪もない人々の怯える姿を見るのは辛いものだ。

 

音楽や絵画、笑いといった感情を揺さぶる芸術や芸事も圧倒的な悲しみや怒りの前では無に帰する。

やはり最低限の心の安定があってこそ人は表現を楽しむことができるのだろう。

思い返すと私も仕事で大きな問題が発生した時など通勤中に音楽を聴く気にもならず何かを考えているか、ボーッと窓から風景を眺めていたもんだ。

 

 

日本で暮らしていると安心安全が当たり前に感じる。治安の良さや整ったインフラなど世界では当然ではない。楽しいだのつまらないだのあーだこーだ言っているが平和や安全あってのことだと改めて思う。

子供の頃に食事を残すと「海外には食べたくても食べられない子がいるんだから残さず食べなさい」と親から言われたもんだ。

私は心の中で「いや、ここは海外じゃないから」と気にもとめなかった。

正直、貧しい国の子供と比較するなと思っていたが実際に苦しんでいる子供の映像を見るとあの時の親の言葉が身に染みる。

 

結局何の話か分からなくなってきたが海外の情勢を見て感じるのは人間には暴力的な一面がありいつの時代にもその暴力が突如顔を出す可能性があること、平和の上に人の営みや表現、それを楽しむ感情があること、そしてやっぱり私は平和を望んでいるということだ。

 

安全な日本の片隅に住む私でさえこんな気持ちになるのだ。現地の人達の恐怖や不安、怒りは計り知れない。一刻も早く停戦交渉が合意され人々が安心と安全を確保して欲しいと心から切望している。

 

 

 



今日はこの辺で。

 

気にしすぎも体に悪いぜ

お世話になります、ウツシロです。

 

最近記事を上げる頻度が変わってきている。

何となく2日に1記事くらいを目標にやってきたが3日間隔になりつつある。

今はそういう時期なので別に良いのだがこの辺の自分ルールに厳しい人にとっては許せないことなのかも知れない。

 

自分のブログは誰かにやれと言われてやっていない。

やってみようと思って自発的に始めたものだ。

記事が書けない時期もあるだろうし、書く気すら起きない時だってあるだろう。

そんな時私は無理をする気はない。自然に身を任せようと思っている。

自分のルールを守れなくてモチベーションが下がることもあるが気にすることはない。新しいマイルールを作っても良いのだ。

自分で勝手にやっているのだから都合良く行こうじゃないか!

 

同時に読んでくれる人を気にして書きたいことが書けない状況もあるだろう。

匿名とは言え誰かを傷つけたり、不快にするのはできれば避けたい。

しかし、これを考えてしまうとブログだろうが実生活だろうが物が言えなくなってしまう。

読んでくれる方々を意識しすぎないことも大切なのかもしれない。

自分の意見と沿わない人は必ずいるし意に反して誰かを傷つけてしまうこともある。

傷ついた人は自然と離れていくがまた戻って来てくれるかも知れない。

他人に気を使って書きたいことを書かないのは自分に嘘をつくことになる。

やり過ぎれば自分にしっぺ返しがくるが出来る限り本心を書こうじゃないか。

 

最近の私はブログを自分の記録として将来の自分の為に書いている気がする。

いつかは家族に読んでもらっても良いと考えている。

今はまだ恥ずかしいが…

 

 

気にしない

気にしない

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正直に生きるって案外難しいね。

 

 

 

話は変わるが是非観て欲しい動画がある。

www.youtube.com

 

私の好きなラッパー田我流とスチャダラパーBose氏のコラボ動画だ。

田我流のリリックも好きだし、Bose氏の「今夜はブギーバック」の1バースを持ってくるあたりやっぱり間違いない、サイコー!

若手のBIMとSkaaiのフロウも素晴らしい。

何よりこのメンバーのリスペクト感とあったかいバイブスが伝わってくる。

 

 

やっぱり自然体で生きて行きたいね。

 

 

 

今日はこの辺で。

 

 

自撮りが苦手な人集合~!

お世話になります、ウツシロです。

 

言い訳がましいがブログを書く時間が作れなくなっている。

プラス少し書いても納得いかずお蔵入りにしてしまう、自分のブログなのだから何を書いても良いはずなのだが…

それ程頭の中がまとまっていない。(忙し過ぎるのも良くないね)

 

しかし、ブログを読み返すと日記のような感覚になる。その時のことを何となく思い出すことができ記録を残すことも悪くないと感じる。

私は昔から自分の写真を撮ることが苦手だ。なぜか恥ずかしい。

記念撮影なども苦手で「別にいらないし」というスタンスをとっていた。

学生時代までは自分の意志とは関係なくちょこちょこ撮ることもあり写真は残っているが一人暮らしを始めてからというもの自分の写真はほとんどなくなった。

人のカメラに写っていることはあるので自分より他人の方が私の写真を持っている可能性が高い。今更思うのだが写真を撮っていなかったことに少し後悔している。

多少の思い出は残っていても客観的に当時を振り返ることはできない。

過去の髪型も服装も趣味も記憶からどんどん消えていってしまうのだ。

 

私の会社には社内報があり偶然見た社内報に数か月しか在籍していなかった名前も忘れかけていた人が写っていた、その時に思ったのがこの社内報の写真がなければこの人のことは私の記憶から消えていただろうということだ。

写真に写った本人もこの社内報を持っていればいつか見返した時に会社にいたことを思い出すことができる。

写真とは存在証明として重要なものであると今更気付いてしまったのだ。

 

逆に私にとっての20代30代というのは存在を証明するものはほとんどないんだなぁとしみじみ思ってしまった。アリバイが無いじゃないか!

今ならスマホで綺麗な写真を手軽に撮れる。ブログでも日記でもインスタでもどんな形であれ記録を残すことで振り返り自分の存在を客観的に見ることができる。

自分の写真などそんなに見るものではないがウン十年後に撮っておいて良かったなぁと思うかもしれない。

私のように写真が苦手な人も何かの節目で撮っておくことをおすすめする。

自分がそこに居たことを改めて実感できる貴重なものだからだ。

 

 

 

 

アイデンティティ

アイデンティティ

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過去の自分を見た時に「俺こんなんだったっけ?」と思うことがある、まるで他人を見ているようでおもしろい。

 

写真がどうしても苦手だという人には時間はかかるが自画像を描くことをおすすめする。画力も上がって一石二鳥だろう。

 

 

今日はこの辺で。