自分定規

「答えは己の中にあり」

気まずいという感情は必要かね?

お世話になります、ウツシロです。

 

気まずいという感情があるがあれは一体何?

心の底からいらない感情だと思っている、そもそも誰得なんだ。

まぁ生物としては危機回避からくるものかも知れないがこの平和な日本に気まずさは不要。

 

とにかく居心地が悪くその場に居たくない、逃げ出したい状況は誰しも経験あるだろう。私の考えた気まずいの結論は言いたい事が言えない状況だと思っている。

 

初対面の相手、友達の友達、職場の上司や先輩、後輩、会議の場や面談中など様々な状況に潜んでいる。お互い探り探りの状況で気まずい雰囲気になる事が多い。

 

顔を引きつらせながら話を合わせ愛想笑いを浮かべる、まさに地獄絵図である。

たまに気まず過ぎて自分の人相が変わってるんじゃないかと思う時すらあるのだ。

 

年齢を重ねるうちに本音が言えない場が増えるのなんの。

幼少の頃もあったのかも知れないが意識する程ではなく気にもしてなかった。

 

KY(空気が読めない)なんて言葉もあったが、言いたい事をそのまま言える人の事なのだろう。

私はそんな人が本当に羨ましい。発言するのにいちいちその場にふさわしいか考えながら話さなければならない。いっぱしのジェントルメンなら当然な振る舞いでも私のような常人からすると心労が蓄積され家路につくとグッタリなのだ。

 

人見知りで会話ができない訳ではない。むしろ誰とでも気さくに話す愛想のいいおじさんの類なのだが

いつからか相手の表情も気になるようになった、こわばっていると感じるとこちらもそれ以上踏み込めなくなってしまう。

 

近年、政治家やタレントなどちょっとした発言のミスで世間的には炎上しているように見える、それは年々厳しくなり発言に敏感になっている。この感覚は一般人にも伝播し始めているのではないか。

気にしすぎかもしれないが皆さんはどう思っているのだろう。

 

言いたい事も言えないこんな世の中じゃ、ポイズン」という曲があったが当時はピンとこなかった。

言いたい事が言えない→なんか胃がキリキリする→体に悪い→ポイズンである。

 

今なら反町隆史氏の気持ちが痛いほどよく分かる、私はようやく彼の曲に追いついたようだ。

 

気まずいという感情とは長い付き合いになるだろう…

 

しかし、いつか気にならない日が来る事を祈りながら気まずくないブログを書こうと思っている。

 

やっと追いついた曲を今一度噛みしめるために。

 

 

 

今日はこの辺で。