大いなる力には大いなる責任が伴うのだ!
お世話になります、ウツシロです。
スパイダーマン「No Way Home」をやっと鑑賞。
ここ数年は映画館も控えレンタルに任せっきりだった。(今回は配信映画を購入)
すべてのスパイダーマンシリーズを観続けてきて良かったと思える仕上がりだ。
相変わらずスパイダーマンの良かれと思う行動が発端となり物語は展開していくのだが、人の為にやったことから悲劇を招く話は映画だけではなく実生活にも当てはまる。
「大いなる力には大いなる責任が伴う。」
この格言はスパイダーマンにおいて重要なテーマであるが、小さな力の私でも思う所がある。
昔から困ってる人や弱っている人が気にかかる性格でそんな人を見つけると声をかけるよう意識していた。
喧嘩の仲裁や悩みの相談を経験していくにつれ、物理的にも精神的にも自分にパワーが無ければ相談役は務まらないことを思い知る。
誰かの困り事に対してどこまで寄り添うかによって力の使い方も大きく変わるが、これを見極めなければ助けるつもりが自分も渦中の人になる可能性を秘めている。
(溺れる人を助けに行って自分も溺れてしまうが如く)
それなりの責任ものしかかり、そんなつもりじゃなかったのにという事態になることもある。決して知らん顔をしろという話ではないが、人を助けるには善意だけではどうにもならない出来事を受け止める覚悟が必要なのだ。
スパイダーマンを観ただけでなぜこんな話になったのか…
この映画ではスーパーパワーを持つ者の苦悩が描かれているがスモールパワーの私にも苦悩がある。
最近の私は元気のない人や困っていそうな人に声をかけることが出来ない。
今の私には他人をフォローするだけの力がないと分かっている。
他人を心配することが出来ない時は自分に余力がないという分かりやすい人種なのである。
私クラスの小さき力でも人助けをするには途中で投げ出せないという責任が伴うことは理解している。だからこそ軽い気持ちで関われないのだ。
大きな力を好き勝手に使っているどこぞの大統領にこの格言を伝えたい気分だ。
スパイダーマンのおかげで人助けにはそれなりの力と責任が伴うことを改めて思い知らされた。
こんな理屈抜きで体が勝手に動いて人助けが出来る人こそ本当のヒーローだろう。
スパイダーマンへの道のりは驚くほど遠い…
今日はこの辺で。
自意識過剰に咽び泣く
お世話になります、ウツシロです。
「誰もあんたの事なんか見てないよ」実家に住んでいる頃に母親から言われた言葉だ。
私は自意識過剰な方だと思う。
他人にどう見られるか気になるし、ある程度格好つけている。
他者から見られているという自意識により自分を苦しめることもある。
他人の目なんて気にするなという歌詞も多いが、それが出来ればこんなに苦労せずに俺流を貫いていたはずだ。
そこで最近は考え方を変えてみるようになってきた。自意識が邪魔して判断に困った場合、他人の目になるようにしている。
私のやりたい事をまず他人にやってもらう、友人や知人、知らない人でも良い。
他人にやってもらう想像をしてその時自分はどう感じるかを考える。
すると案外NGが少ないことに気付く。
例えば夢を叶える為に仕事を辞めたいと思っても自分が居なくなると会社の同僚に迷惑をかけると思い込んだり、周りの人間に理解されないだろうと考えることもある。
しかし、他人が同じことをした時自分はどう思うかを考えればさほど気にしなくて良いことに気付く。
自意識の強い人ほど他人がどう思うかを勝手に決めつけている場合が多い。
そんな時こそ自分の行動を他人にやってもらう想像をするとよい。
仮に誰かが何かを失敗しても自分は大して気にしていないし、そこまで興味もないのだ。
「あ~、そんなことあったね(笑)」くらいだろう。
警戒すべきは他人のリアクションを気にして自分の行動にNGを出すことだ。
余計な忖度の末結局やりたかったことが出来ない状態こそが問題である。
本当に身近にいる人には相談するべきだがそれ以外の人にまで気を使い過ぎることは健康的ではない。これは自ら生きずらい状態を作っているのだ。
人前でこんなことをしてはいけない、こんなことをすると恥ずかしい、バカみたいに見えるなど思い込んでいるが具体的にそこまで自分を気にかけている人はほとんど居ない。自意識こそが自分を苦しめ縛っていたと気付く。
母親から言われた「誰もあんたの事なんか見てないよ」は極論かもしれないが一理ある。どこにあるのか分からない他人の目や世間の目を気にして自分を抑えるならそのくらいの感覚の方が楽に生きていけるのではないか。
自意識過剰を逆手にとって楽しそうな人もいるが、私のように自らを拘束してしまう人はもう少し自由な考え方でも大丈夫な筈だ。
誰も見てないからって法に触れるようなことはNGだから気をつけよう!
今日はこの辺で。
こだわらないをこだわりにした男
お世話になります、ウツシロです。
人それぞれ「こだわり」を持っているだろう。
こだわりの材料、こだわりの道具、こだわりのスープ、こだわりの鶏ガラ、こだわる物は多岐に渡る。こだわりの強い人を特集した番組もあるくらいだ。
こだわりの強弱には性格や考え方が影響していると思うが、そんな私はこだわっている物が極めて少ない。
なぜならこだわりを持たない事にこだわってしまったからだ。
だいぶ痛い理由なのだが若い頃の私はこだわりの強い人に疑問を持っていた。
例えばあの道具でなければベストが出せないなどと言われると何だか言い訳に聞こえてしまい、その辺にある物でサラッとやってくれたらカッコいいのにと思ったものだ。
そんな思いを抱いてからはこだわらなくてもサラッとこなす人間を目指し、他人のこだわりの蘊蓄にも「長い」という理由で聞く耳を持たない傾奇者へと変貌していった。
それからは趣味の道具や身の回りの物まで極力こだわりの無い物で揃えるようになる。当時の私はこだわったら負けと思っていた。
こだわりの強い人というのは様々な物を試した結果一番しっくりくるものを使い、その分知識も付いてくる。私は逆に「なんでもいいぜ」のスタイルで何を使っても一緒というスタンスをとった。
何を使っても一緒ではないことは分かっていたが……若気の至りである。
最近思うのが「何かにこだわっている大人ってカッコいいかも?」という事だ。
こだわりの物に対する知識や見識は大人っぽさを演出し知的に見える。
私のようなこだわらない人間は例え何かを上手くこなせてもただの器用な人に見えているのではないかと思ってしまう。
そして他人への伝え方にも違いが出る。
元々細かい事は気にしないスタイルでやってきた私は説明もあまりしないし出来るだけ省こうとしてしまう。背中で語りたい派なのだ。
こだわりの強い人程説明にも熱が入り妙に説得力がある。
更に大きな違いは「楽しそう」という事だ。
こだわりの物を選ぶ時も使う時も夢中になっている事が分かる。
それを横目にこだわるのも悪くないかもと歯ぎしりしている自分がいる。
こだわりとは他人を気にせず夢中になり、その強さこそが個々の特徴と言えよう。
そこに人は興味を惹かれるのだ。
今更「こだわりのアニキ」にはなれないがこだわりに対する偏見が薄れていることは間違いない。
こだわらないをこだわりにした男も結局はこだわる男だったということだ。
しかし、今回はこだわりって言葉を何回書いただろう……
今日はこの辺で。
世界レベルDJによるMIXのおもしろさをご紹介!
お世話になります、ウツシロです。
世間は3連休ですね。
いかがお過ごしですか?
私はもっぱらドランク&YouTubeです。
今回は私がビールを嗜みながら観るDJMIXのYouTube動画を紹介したい。
これをきっかけに色々掘ってもらえると幸いだ。
DJとは人が作った曲をただ繋ぐだけの人というイメージがあると思うが、実はレコードを使って様々なトリックを混ぜている。
もちろん1アーティストのライブ程の迫力や熱量はないがDJが選ぶ多くの曲を聴くことができ更に繋ぎやMIXによって思いもよらない展開を楽しむことができる。
既存曲にそのDJ独自のアレンジを加えることで普通に聴くのとは違う感覚を楽しむことができるのだ。
まずはDJの世界大会DMCにおいて2016年のワールドチャンピオン「DJ YUTO」だ。
DJ YUTOは2018年にバトルDJ界のレジェンドであり、Kanye WestのバックDJも務めた「DJ A-TRAK」の主催するGoldie Awards DJ Battleのチャンピオンにもなっている筋金入りのバトルDJである。そのDJ YUTOによる日本語ラップ、J-POPのMIXがこちらの動画だ。
10:35からの流れはこの動画のハイライトと言える。自然に体が揺れるので是非ご覧あれ。ビール片手に世界レベルのDJの技術や選曲を楽しんでもらいたい。
次の動画は2009年、2015年DMC JAPANで優勝しDMC World Finalに出場を果たした
「DJ SHOTA」だ。
基本的には日本語ラップのMIXだがそこにトリックを加えることで観ていて飽きさせない技術をもっている。できれば現場で体感したいレベルのMIXである。
この「MELLOW WORKS」という動画はシリーズものなので他の動画も是非観て欲しい。作業用BGMとしてもちょうど良いテンポでおすすめだ。
個人的には「MELLOW WORKS3」もおすすめだ。
職人のような佇まいでインストとアカペラをスクラッチを織り交ぜながらブレンドしている。このローテンポでのプレイはMIX時のズレが目立ち非常に難しいはずだが見事に決めている。技術が無ければできない芸当だ。
クラブミュージックもDJもどんどん進化していて様々な表現方法がある。
日本は間違いなくDJ大国であり凄腕が多い、DJのプレイはバンドやアーティストとは違う驚きや高揚感がある。ただ曲をかけるだけではないDJを知ることでこのおもしろさを是非堪能してもらいたいと思っている。
今日はこの辺で。
私のMIXをBGMに
お世話になります、ウツシロです。
今回は完全なる昔話をしたい。
これは2009年に作ったMIXCDだ。
まじで今更ではあるがネタが無いことを察してほしい。(皆まで言うな)
※BGMとして聴いてもらえると幸いです。
私は過去に2枚のMIXCDを制作した。(業者に頼んでジャケから盤面まで)
某有名CDショップから個人経営のCDショップ、洋服屋さんなどに置いてもらったこともある。
MIXCDとは著作権的にほぼ黒よりのグレーだがMIXTapeだった時代からDJの世界では文化として存在していた。(今はYouTubeなどで発表しているようだが)
1枚目に作ったMIXは当時ハマっていたエレクトロがメインでHipHopやRock、R&Bなどを混ぜたMIXだった。そして2枚目はジャケット付きのCD盤としては最後となったこのMIX「流浪のフロウ」だ。
20代の私はアルバイトをしながら4人組のHiphopグループを組み活動していた。Sony主催のコンテストに出たり今をときめくラッパー達(当時は無名だったが)と夜な夜なクラブで共演していた。
1日に2軒のクラブをハシゴしてのライブや地方に呼ばれるなど精力的に活動していた。
しかし、バイトをしながら徹夜の毎日に20代も半ばになると将来に不安を感じるようになる。メンバー間で音楽活動に対する考え方にもズレが生じ結果グループはバラバラになった。
私は音楽活動を辞め就職して安定を選択したが、音楽活動の思い出として何か残したいと思い作ったのがこのMIXCDである。
元々バトルDJ寄りのスタイルだった私は様々な音楽ジャンルを混ぜることが好きでこのMIXもジャンルレスを意識した。音楽仲間の曲やHipHop、Funk、Jazz、Bossa、Dubなどで構成し一つのジャンルにとらわれず色々な音楽を楽しめる内容にしたつもりだ。
最近また何かを作りたい衝動に駆られる。
私の好きなMIXなどYouTubeで何百万再生だ。目指してみるか…
新しいMIXやスクラッチルーティンを作ってブログで発表するのもアリかもしれない。
何か作った時はお付き合い下さい。
今日はこの辺で。
恥ずかしがり屋にメリットはあるのか?
お世話になります、ウツシロです。
日本人に恥ずかしがり屋、「シャイガイ」が多いというイメージがある。
かく言う私も恥ずかしながら恥ずかしがり屋だ。
しかし、男の「シャイガイ」で良い事(メリット)が少しでもあっただろうか?
私は今まで恥ずかしがり屋で良かったエピソードを聞いたことがない。
特に集団の中で「シャイガイ」は分がわるい。「シャイガイ」なんて人生において何の役にも立たないと思っている。
恥ずかしさから九死に一生を得た、恥ずかしくて大金を拾う。恥ずかしくて昇進できた。恥ずかしがったら彼女ができた。
「恥ずかしがり屋で得をしたエピソードのある人はコメント欄に是非お願いします!」
恥ずかしいという感情は人を消極的にする。
様々なチャンスを棒に振るう可能性を秘めている。
やはり自立した大人にとって恥ずかしいという感情はマイナス要素でしかない。
この弱肉強食の世の中で恥じらってばかりでは自力で進んでいくのは難しい。
女性で恥ずかしがり屋は可愛いらしい印象があるが、男性の恥ずかしがり屋は頼りない印象になってしまう。
恥ずかしがってキャー可愛いなんて言われるのは小学生までだ。
たまにイケメンタレントがはにかんでキャーなんて言われているが本当の「シャイガイ」はタレントになれない。人前に出るなんてもってのほかなのだ。
人生には数少ないチャンスや転機がある。恥ずかしがってその機会を逃していることは割と多いと思う。みっともなくても失敗しても前に出ることがチャンスを手にする秘訣だろう。どんな形であれ前に出るということは恥ずかしさを伴いそれを振り払う必要があるのだ。チャンスなんかより恥ずかしい方が嫌だという人はそれで良いが控えめに生きていても何も動かないことは間違いない。
約30年の「シャイガイ」人生で気が付いたのは恥ずかしがり屋にメリットは特にないということだ。
恥じらいや謙虚さは日本人の美徳かも知れないが結果的にはそれを振り払って前に出れる人間こそ事を成しているように見えるのは私だけだろうか…
恥かいて汗かいて爪痕を残したい衝動に駆られる3月なのであった。
今日はこの辺で。
偶然でも運命でもどちらでも
お世話になります、ウツシロです。
大概の人には人間関係が存在する。
家族、友人、恋人、同僚など大なり小なりあるだろう。
運命なのか偶然なのかはさておいても現在地球上の人口は推定70億人、70億分の何人かだ。数字を見ると自分にとって身の回りの人がいかに特別な存在かが分かる。
若い頃というのは様々な出会いがあり一つ一つの出会いにあまり重きをおいていなかったように思う。
しかし、年を取るにしたがって自分の身近にいる人々は限られていることに気付く。
だから何だという話だがブログをやっていて思うのがブログにも人間関係が存在していることだ。
この関係は実生活より縛りがない分薄いのかもしれないが身近な人にも言えない本音に近い部分をあまり気にせず共有しているように思う。
まるでかつてあった文通相手に悩みを打ち明けるみたいなものか。
知らない者同士だからこそ書ける内容というものもあるのだ。
私のブログを定期的に読んでくれる読者の方は何となく分かる。
いつもスターありがとうございます。励みになります。
私も定期的に読ませてもらっているブログを選んだ理由を考えるとフィーリングを重視している。自然と雰囲気や人柄、考え方、見やすさなど総合して選択していると思う。
どちらかと言えば内容より書き手に共感を持った時気になる存在になるのだろう。
例え私にとって必要ではない情報でも読んでしまう。
見ず知らずの相手に親近感がわいてしまうという不思議な現象だ。
ブログを始める時は自分の好きなことや考えをただ発信するだけで人のブログを読むつもりはなかった。しかし、他のブロガーさんはどんなことを書いているのか気になり読むようになるとその中でも特に自分に合っているブログを探すようになった。
気が付くと毎回読ませてもらうブログがあり記事と同時に存在を確認しているのかも知れない。(おっ、来た来た!みたいな)
時にコメントをもらい、時に似た内容の文章を書いたり偶然かもしれないが何か影響を受けあっているのかと思う時もある。
私にとっては互いのブログを読み合う仲というのも人間関係(繋がり)だと思うようになった。
この山ほどあるブログの中から何の因果か出会いお互いの文章を読み合うというのも凄い確率だ。
と同時に実生活でも近くに居て当然と思っている人が実は奇跡的な確率で一緒に居ると考えるべきだろう。
きっと感謝の気持ちがわいてくる。
自分の考え方に影響を与えてくれる人というのは実生活だろうがブログだろうが貴重な存在だね。
人の繋がりとは不思議であり素敵なものだ。
今日はこの辺で。